年度
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加盟校
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出来事
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1885年
(明治18年)
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秋田へ野球が伝えられる。(「秋田県野球史稿」)
野球が最初に行われた所は、秋田医学校校庭(旧秋田中学、東根小屋町下丁)である。 |
1886年
(明治19年)
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野球試合の嚆矢は秋田医学校と中学師範予備校(師範学校)とする。 |
1900年
(明治33年)
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第1回挑戦杯(チャレンジカップ)が6月17日〜19日に行われ、南楢岡クラブが優勝。参加は秋田第一中学校(秋田中学)、南楢岡クラブ、秋田師範学校の3チーム。明治41年まで行われた。 |
1902年
(明治35年)
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第4回挑戦杯に横手中学が初参加。 |
1903年
(明治36年)
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第6回挑戦杯に大館中学が初参加。 |
1909年
(明治42年)
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矢留倶楽部(秋田中学)が8月17日より29日まで上京し、東京の中学校と対戦し、6戦して2勝2敗2引き分けの成績を残す。 |
1911年
(明治44年)
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森県知事の「野球禁止令」で対外試合ができなくなる。 |
1912年
(大正元年)
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10月18日、秋発第42号をもって「野球禁止令」がとかれた。10月19日、秋田中学は楢山運動場にて横手中学と対戦し、6対2で秋田中学が勝ち、21日には大館中学と対戦し6対1で勝っている。 |
1914年
(大正3年)
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8月12日より、秋田中学が関東地方に遠征。通算成績6勝1敗1分けの好成績を収める。
秋田中学 |
14−0
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福島中学 |
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秋田中学 |
4−2
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日本中学 |
横浜商業 |
5−2
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秋田中学 |
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秋田中学 |
5−5
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宇都宮中学 |
秋田中学 |
9−1
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荏原中学 |
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秋田中学 |
8−7
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早稲田実業 |
秋田中学 |
2−0
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仙台一中 |
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秋田中学 |
5−1
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相馬中学 |
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1915年
(大正4年)
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秋田中学が第1回全国中等学校野球大会に東北代表として出場。初戦、山田中学戦は9対1で大勝し、準決勝は早稲田実業と対戦し3対1で快勝し、決勝に駒を進めた。決勝は京都二中と対戦し、7回に先取点をあげたが8回に同点とされ、延長13回1対2でサヨナラ負けを喫し、優勝を逃す。 |
1917年
(大正6年)
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全国大会をかけて秋田県から秋田中学が参加9チームによる東北大会に出場したが、準決勝で盛岡中学と対戦し、5対7で敗退。 |
1919年
(大正8年)
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全国大会をかけて秋田県から秋田中学が参加。この大会から北海道も加わり、参加校も11校となった。秋田中学は準決勝で函館商業と対戦し、7対12で敗退。 |
1921年
(大正10年)
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東北大会に秋田県から秋田中学と横手中学が参加。
1回戦 |
横手中学 |
14−4
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福島師範(7回コールド) |
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秋田中学 |
7−3
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一関中学 |
2回戦 |
仙台二中 |
8−18
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横手中学 |
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秋田中学 |
8−2
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遠野中学 |
準決勝 |
秋田中学 |
6−2
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仙台一中 |
決 勝 |
盛岡中学 |
0−9
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秋田中学 |
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1922年
(大正11年)
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東北大会に秋田県から秋田中学、横手中学、本荘中学の3校が参加。
秋田中学が第2回大会から6年続いた岩手県勢の壁を破って 第1回大会以来、二度目の全国大会出場を果たした。
1回戦 |
秋田中学 |
16−0
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仙台商業(7回コールド) |
2回戦 |
盛岡中学 |
5−3
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横手中学 |
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仙台一中 |
4−3
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本荘中学 |
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秋田中学 |
6−0
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仙台工業 |
準決勝 |
秋田中学 |
8−2
|
盛岡中学 |
決 勝 |
秋田中学 |
5−2
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築館中学 |
全国大会は、広島商業と対戦し9対14で敗退。 |
1923年
(大正12年)
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秋田鉱山専門学校主催の東北6県中学野球大会で秋田中学が優勝。秋田師範学校に野球部が正式に創部された。
東北大会に、秋田中学、横手中学、本荘中学の他に創部3年目の秋田商業、古豪の大館中学がともに初出場した。
1回戦 |
仙台一中 |
17−3
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秋田商業 |
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米沢中学 |
14−3
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本荘中学 |
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磐城中学 |
9−0
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横手中学 |
2回戦 |
仙台一中 |
6−2
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大館中学 |
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秋田中学 |
5−9
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会津中学 |
準々決勝 |
秋田中学 |
8−4
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盛岡商業 |
準決勝 |
八戸中学 |
12−8
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秋田中学 |
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1924年
(大正13年)
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東北大会に秋田中学、大館中学、秋田商業の3校が出場し、秋田中学が優勝し、3回目の東北代表となった。
1回戦 |
秋田中学 |
14−7
|
仙台工業 |
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大館中学 |
14−2
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磐城中学(7回コールド) |
2回戦 |
秋田中学 |
5−4
|
東北学院 |
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大舘中学 |
6−5
|
東北中学 |
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秋田商業 |
10−3
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青森商業 |
準々決勝 |
秋田中学 |
11−10
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仙台二中(延長10回) |
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盛岡中学 |
5−3
|
大館中学 |
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米沢中学 |
7−2
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秋田商業 |
準決勝 |
秋田中学 |
6−0
|
盛岡中学 |
決 勝 |
秋田中学 |
18−6
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米沢中学 |
舞台を甲子園球場に移した第14回大会、秋田中学は松山商業と対戦したが、1対13で大敗した。
8月8日から長岡市で開催された裏日本中等学校野球選手権で秋田商業が初優勝した。 |
1925年
(大正14年)
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第1回奥羽大会(青森県、秋田県、山形県)が秋田市で開催され、秋田中学、秋田師範学校(初出場)、大館中学、秋田商業、土崎商業(初参加)の5校が出場し、創立6年目の秋田商業が奥羽代表として初出場。2回戦で敦賀商業と対戦し、4−5で惜敗。 |
1926年
(大正15年)
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奥羽大会に秋田中学、横手中学、大館中学、秋田師範学校、秋田商業の5校が参加。秋田商業が決勝まで進んだが、八戸中学に6対8で敗退。
9月24日、土崎野球連盟が主催して秋田中学と秋田商業の両校の技術向上を目標に定期戦を企画し、第1回定期戦が高清水公園で行われた。 |
1926年
(昭和元年)
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昭和元年はたったの6日間で翌年1月元日から2年となった。 |
1927年
(昭和2年)
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奥羽大会は青森市の佃球場で開催され、秋田商業、大館中学、秋田師範学校、秋田中学が出場し、秋田師範学校が決勝まで進んだが青森師範学校に0対9で敗れた。 |
1928年
(昭和3年)
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奥羽大会は秋田市楢山グランドで開催され、秋田師範学校、本荘中学、大館中学、秋田商業、秋田中学の5校が出場し、秋田師範学校が決勝まで進んだが、八戸中学に2対8で敗れた。 |
1929年
(昭和4年)
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第1回新進中等学校野球大会が土崎将軍野野球場で開催され、決勝戦で大曲農業を10対3で破った本荘中学が初優勝した。
奥羽大会は山形県で開催され、秋田師範学校、秋田中学、秋田商業、大館中学、本荘中学、横手中学の6校が出場し、秋田師範学校が決勝に進出し、八戸中学を延長11回の末、6対5でサヨナラ勝ちを納め、野球部創設6年目にして待望の甲子園出場を果たした。
1回戦 秋田師範学校 0−12 鳥取一中 |
1930年
(昭和5年)
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奥羽大会は青森市佃球場で開催され、秋田師範学校、秋田中学、秋田商業、大館中学、本荘中学、横手中学、大曲農業、矢留中学の8校が出場し、秋田商業が決勝まで進出したが八戸中学に1対2で惜敗。
10月17日、秋田魁新報主催の全国選抜中学校野球大会が将軍野球場で行われ、秋田中学は和歌山商業と対戦し、2対4で敗退。 |
1931年
(昭和6年)
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奥羽大会は新装となった楢山グランドで開催され、将軍野中学、秋田師範学校、秋田中学、秋田商業の4校が出場し、秋田中学が決勝で八戸中学を3対で下し、大正13年以来、7年ぶりの甲子園出場を果たした。
1回戦 秋田中学 6−0 千葉中学
2回戦 秋田中学 1対19中京商業 |
1932年
(昭和7年)
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12校
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5月21日から秋田県体育協会主催市内中学校リーグ戦が始まる。
6月25日、県北中等学校野球大会は、鷹巣農林、大館中学、能代中学、能代工業、金足農業の15校が参加して行われた。
7月2日〜3日、第1回県南野球大会が大曲記念グランドで開催され、本荘中学、大曲農業、横手中学、角館中学が参加。
奥羽大会は山形市山高グランドで開催され、秋田師範学校と秋田中学が出場し、秋田県同士となった決勝戦は、秋田中学が秋田師範学校を11対4で破り2年連続5度目の甲子園出場を果たした。
第18回全国中等学校野球大会
1回戦 秋田中学 1−8早稲田実業(降雨6回コールド) |
1933年
(昭和8年)
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12校
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奥羽大会は青森市佃球場で開催され、秋田中学と秋田商業が参加し、秋田県同士の対決となった決勝戦は、秋田中学が逆転の末、10対9で秋田商業を破り、3年連続6度目の甲子園出場を果たした。
第19回全国中等学校野球大会
1回戦 秋田中学 5−7 郡山中学(紀和代表) |
1934年
(昭和9年)
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13校
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金足農業が初参加。奥羽大会は茨島市営球場で開催され、秋田中学、秋田商業、秋田師範学校、土崎商業の4校が出場し、準決勝はすべて県勢が占め、決勝は秋田中学が秋田商業を6対0で破り、4年連続7回目の甲子園出場を果たした。
第20回全国中等学校野球大会
2回戦 |
秋田中学 |
5−1
|
福島師範学校 |
準々決勝 |
秋田中学 |
17−7
|
敦賀商業 |
準決勝 |
秋田中学 |
0−9
|
呉港中学 |
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1935年
(昭和10年)
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13校
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奥羽大会は、青森市沖館青森球場で開催され、秋田商業、秋田中学が出場し、秋田商業が決勝に進み、7対1で盛岡中学を破り、大正14年以来10年ぶり、2度目の甲子園出場を果たした。
第21回全国中等学校野球大会
2回戦 |
秋田商業 |
4−0
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桐生中学 |
準々決勝 |
秋田商業 |
2−5
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愛知商業 |
第8回神宮体育大会に東日本代表として秋田商業が選ばれた。
1回戦 |
秋田商業 |
7−3
|
大分商業(九州代表) |
準決勝 |
秋田商業 |
3−4
|
呉港中学(山陽代表) |
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1936年
(昭和11年)
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12校
|
奥羽大会第一次予選秋田大会は秋田商業が2年連続優勝。奥羽大会には秋田商業と秋田中学の2校が出場したが、決勝で秋田商が盛岡商業に1対3で敗退。 |
1937年
(昭和12年)
|
13校
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奥羽大会第一次予選秋田大会は土崎商業が初優勝。奥羽大会は秋田市茨島球場で開催され、土崎商業、秋田中学、秋田商業、角館中学(奥羽大会初出場)が出場し、秋田中学が4対3のサヨナラ勝ちで3年ぶり8度目の甲子園出場を果たした。第23回全国中等学校野球大会
※昭和28年、秋田高校が出場するまで(間に戦争による中止があるが)、16年間、甲子園から遠ざかる。 |
1938年
(昭和13年)
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13校
|
奥羽大会第一次予選秋田大会は秋田中学が5年ぶりの優勝。奥羽大会は青森市沖館青森球場で開催され、秋田中学、土崎商業が出場したが、両校とも1回戦で敗退。
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1939年
(昭和14年)
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13校
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奥羽大会第一次予選秋田大会は、秋田商業が4年ぶりの優勝。奥羽大会は盛岡市営グランドで開催され、秋田商業、秋田師範学校が出場したが、両校とも1回戦で敗退。 |
1940年
(昭和15年)
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14校
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奥羽大会第一次予選秋田大会は、秋田中学が2年ぶり3回目の優勝。奥羽大会は秋田市八橋新球場で開催され、秋田中学、秋田師範学校、大館中学、能代中学(初出場)が出場したが、秋田中学の準決勝進出が最高。 |
1941年
(昭和16年)
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野球部が「報国団鍛錬部野球班」と名称が変わった。大会中止。 |
1942年
(昭和17年)
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全国中等学校野球大会が中止になり、昭和16年8月22日から「全国中等学校、師範学校ならびに国民学校青年学校体育大会」いわゆる三体育大会が開かれた。この年、全国中等学校野球大会にかわって、名称は「全国中等学校体育大会野球大会」であった。
この大会の秋田県予選は、第1回県男子中等学校野球訓練大会の名称で秋田県学校報国団が主催し、9校が参加、秋田中学が優勝した。優勝した秋田中学は、東北大会に出場したが、1回戦で弘前工業と対戦し、0対1で惜敗。 |
1943年
(昭和18年)
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12校
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奥羽大会は青森市佃球場で開催され、秋田中学と秋田商業が参加し、秋田県同士の対決となった決勝戦は、秋田中学が逆転の末、10対9で秋田商業を破り、3年連続6度目の甲子園出場を果たした。
第19回全国中等学校野球大会
1回戦 秋田中学 5−7 小売り山中学(紀和代表) |
1944年
(昭和19年)
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1945年
(昭和20年)
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1946年
(昭和21年)
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12校
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戦後、最初の奥羽大会第一次予選秋田大会は、八橋球場で初出場の秋田市立中学(昭和18年創立)が加わり、12校で開催され、角館中学が初優勝。奥羽大会は盛岡市岩手医専球場で開催され多賀、角館中学は初戦で盛岡中学に1対2で敗退。
9月22日・23日、東北6県選抜中等学校優勝野球大会」が岩手県一関中学校球場で開催された。(現在の東北選抜高校野球のはしり)角館中学が決勝まで進んだが一関中学に4対0で敗退。 |
1947年
(昭和22年)
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奥羽大会第一次予選秋田大会は、湯沢中学、秋田工業の初出場が初出場し、湯沢中学と秋田中学が奥羽大会に出場(決勝戦は行わず)。
奥羽大会は、秋田市の八橋球場で開催されたが、両校とも1回戦で敗退。 |
1948年
(昭和23年)
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15校
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秋田県高野連が発足する。初代会長は皆川 一氏(秋田商業高校長、昭和26年まで)。 |
1952年
(昭和27年)
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23校
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第2代会長は高橋 一朗氏(秋田高校長、昭和30年まで)。
本荘が夏の大会、全県初優勝を飾る。 |
1953年
(昭和28年)
|
24校
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秋田が奥羽大会を制し、(昭和12年以来)16年ぶり9度目の甲子園出場。
2回戦、優勝した松山商業と対戦し0対2で惜敗。 |
1954年
(昭和29年)
|
24校
|
秋田が奥羽大会を制し、2年連続10回目の甲子園出場。2回戦、三原高校と対戦し0対5で敗退。 |
1956年
(昭和31年)
|
25校
|
第3代会長に潮田 潔氏(秋田商業高校長、昭和33年まで)。秋田が奥羽大会を制し、2年ぶり11回目の甲子園出場。2回戦、浪華商と対戦し1対10で敗退。 |
1957年
(昭和32年)
|
25校
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手形、八橋両球場を使用。 |
1958年
(昭和33年)
|
26校
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40回記念大会で1県1校の出場。秋田商業が本荘高校を破り、24年ぶり3度目の甲子園出場。2回戦で準優勝した徳島商業に0対3で惜敗。矢島高校が初参加。 |
1959年
(昭和34年)
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27校
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第4代会長に村岡 一朗氏(秋田高校長、昭和37年まで)。 この年から始まった西奥羽大会に金足農業が出場したが、新庄北高校に1対4で惜敗。
10月、東北6県高校野球選手権大会で、秋田商業が優勝。 |
1960年
(昭和35年)
|
27校
|
秋田県勢として初めて選抜大会に秋田商業が出場し、準決勝に進出。米子東高校と対戦し、0対2で惜敗。西奥羽大会では6対0で金足農業を敗り、春夏
連続出場。2回戦で準優勝した静岡高校と対戦し、0対1で惜敗。熊本国 体に秋田商業が出場。準決勝で北海高校と対戦し3対5で惜敗。東北大会
では、秋田商業が2年連続優勝。 |
1961年
(昭和36年)
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27校
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選抜大会へ秋田商業が2年連続で出場し、2回戦で平安高校と対戦し、1 対3で敗退。西奥羽大会では、秋田商業が秋田高校を2対1で敗り、春、夏、春、夏、4季連続甲子園出場という快挙を成し遂げた。ハワイ高校選抜軍と秋田県高校選抜軍が対戦し、7対9で惜敗。選手権大会では秋田商業が2回戦、桐蔭学院高校と対戦し、延長10回、0対1でサヨナラ負けを喫した。地元で開催された秋田国体で秋田商業は1回戦で新発田を1対0、2回戦の崇徳とは延長18回、0対0で決着がつかず、再試合で4対1と勝ち、準決勝に進んだが中京商業に2対7で敗れた。 |
1962年
(昭和37年)
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28校
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西目農業が初参加。西奥羽大会決勝では、大曲農業が山形商業と対戦し、2対3で惜敗。東北大会では大曲農業が青森一高を3対0で敗り初優勝。 |
1963年
(昭和38年)
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31校
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大曲農業が選抜大会に初出場。2回戦で享栄商業と対戦したが2対11で敗退。夏の大会は、由利工業、平鹿、合川が初参加。能代が大曲農業を6対4で破り、初出場(45回記念大会で1県1校)。2回戦で岡山東商業と対戦し、1対5で敗退。東北大会で秋田工業が初優勝。 |
1964年
(昭和39年)
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36校
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夏の大会は大曲工業、沼館、大曲東、大館商業、秋田南が初参加。秋田工業が初出場。1回戦で優勝した高知高校と対戦し1対4で敗退。 |
年度
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加盟校
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出来事
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1965年
(昭和40年)
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37校
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理事長に安藤 晃氏(秋田工業高校、昭和49年まで)就任。夏の大会は六郷高校が初参加。選手権大会には西奥羽大会を制した秋田高校が出場し、準決勝まで進出。優勝した三池工業高校に3対4で惜敗。1回戦、対大鉄高校戦で成田 憲明選手が秋田県人として第1号の本塁打を放つ。 |
1966年
(昭和41年)
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39校
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39校 第6代会長に鈴木 健次郎氏(秋田高校)が就任。 |
1967年
(昭和42年)
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第7代会長に山本 一氏(秋田高校)が就任。 |
1968年
(昭和43年)
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第8代会長に横谷 永太郎氏(秋田工業高校長、昭和45年まで)就任。
第50回全国高等学校野球選手権記念大会に秋田市立高校が初出場で準々決勝に進出する。 |
1969年
(昭和44年)
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|
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1970年
(昭和45年)
|
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1971年
(昭和46年)
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会長に阿部栄治が就任する。 |
1972年
(昭和47年)
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1973年
(昭和48年)
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第55回全国高等学校野球選手権記念大会に秋田高校が出場し、 開会式で高木昇主将が本県勢初の選手宣誓を行った。 |
1974年
(昭和49年)
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会長に佐々木徹郎が就任する。 |
1975年
(昭和50年)
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理事長に安杖正昭が就任する。
三重国体の高等学校野球軟式競技に秋田商業高校が出場し優勝する。 |
1976年
(昭和51年)
|
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1977年
(昭和52年)
|
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1978年
(昭和53年)
|
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|
1979年
(昭和54年)
|
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会長に松下春男が就任する。
第24回全国高等学校軟式野球選手権大会で能代高校が準優勝する。 |
1980年
(昭和55年)
|
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第52回選抜高等学校野球大会で秋田商業高校が準々決勝に進出する。
栃の葉国体の高等学校野球軟式競技で能代高校が優勝する。 |
1981年
(昭和56年)
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第53回選抜高等学校野球大会で秋田経済法科大学附属高校が準々決勝に進出する。
会長に草g幸太郎が就任する。 |
1982年
(昭和57年)
|
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第27回全国高等学校軟式野球選手権大会で能代高校が優勝する。
能代高校はこの年から4年連続で準決勝以上に進出する。 |
1983年
(昭和58年)
|
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会長に新堀孝義が就任する。 |
1984年
(昭和59年)
|
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金足農業高校が第66回全国高等学校野球選手権大会で初出場ながら準決勝に進出する。 |
1985年
(昭和60年)
|
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1986年
(昭和61年)
|
|
会長に松田幸雄が就任する。 |
1987年
(昭和62年)
|
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理事長に豊島君男が就任する。 |
1988年
(昭和63年)
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会長に佐藤嚴が就任する。 |
1989年
(平成元年)
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会長に嵯峨友吉が就任する。
第71回全国高等学校野球選手権大会で秋田経済法科大学附属高校が準決勝に進出する。
第34回全国高等学校軟式野球選手権大会で本荘高校が準決勝に進出する。 |
1990年
(平成2年)
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第62回選抜大会で本県から金足農業高校、 秋田経済法科大学附属高校の2校が出場し、
東北では史上初の快挙であった。 |
1991年
(平成3年)
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会長に池田好道が就任する。
秋田県高等学校野球史「翔球」発行する。 |
1992年
(平成4年)
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1993年
(平成5年)
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会長に笹村健明、 理事長に浅利吉晴が就任する。 |
19940年
(平成6年)
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秋田経済法科大学附属高校の小野仁投手が全日本に選抜され、 広島アジア大会にも日本代表として出場し、
優勝に貢献し金メダルを獲得した。 |
1995年
(平成7年)
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会長に庄司捷雄が就任する。
第77回全国高等学校野球選手権大会で、 金足農業高校が準々決勝に進出する。
第40回全国高等学校軟式野球選手権大会で能代高校が準優勝する。
第26回明治神宮野球大会で秋田高校が準決勝に進出する。 |
1996年
(平成8年)
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1997年
(平成9年)
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日米親善高校野球試合が秋田市で行われる。 |
1998年
(平成10年)
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第80回全国高等学校野球選手権記念秋田大会決勝で、金足農業高校が秋田商業高校に球史に残る大逆転劇で優勝する。 |
1999年
(平成11年)
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会長に佐藤良治が就任する。 |
2000年
(平成12年)
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2001年
(平成13年)
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会長に木村養市が就任する。 |
2002年
(平成14年)
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理事長に佐藤茂が就任する。
少年野球育成事業 (野球フェスティバル) を実施する。 |
2003年
(平成15年)
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会長に三浦昌弘が就任する。
第85回選手権記念秋田大会の開会式で、 秋田警察音楽隊によるマーチングドリルが大会に華を添えた。強化招待試合、
技術講習会を開催する。 |
2004年
(平成16年)
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秋田商業高校が第76回選抜高等学校野球大会に希望枠で出場し、 佐々木陽祐主将が選手宣誓を行った。秋田商業高校は準々決勝に進出する。 |
2005年
(平成17年)
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会長に津谷正俊が就任する。
秋季地区大会から敗者復活戦を採用する。 |
2006年
(平成18年)
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第78回選抜高等学校野球大会で秋田商業高校が準々決勝に進出する。 |
2007年
(平成19年)
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会長に北林 |
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が就任する。 |
本県での開催が46年振りとなる秋田わか杉国体が開催される。この高等学校野球硬式競技での佐賀北高校と金足農業高校の対戦では、
こまちスタジアムの入場者数がこれまでの最多記録となった。 |
2008年
(平成20年)
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理事長に鎌田勝が就任する。
第90回全国高等学校野球選手権記念秋田大会では、 明桜高校のブラスバンド並びに斎藤忠生氏の独唱で大会に華を添えた。
参加校も過去最多の53校となる。 |
2009年
(平成21年)
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全国高等学校野球選手権秋田大会の試合日程が1日増となった。
11月20日60周年記念式典を挙行する。 |